石原莞爾顕彰会事務局より

墓参された方々のご感想・ご意見を整理の上公開させていただいております。ノートを置いた平成13年からのものです。北海道から九州まで、小学生からご高齢の方まで老若男女、記名された方のうち約2割がこのノートに思いを綴られています。中には、遠方にも関わらず、二度以上訪れる方も相当数いらっしゃいます。石原将軍への熱い思い、永久平和への願い、この国のありようを考える、将軍の生き方に励まされた等々、記述の長短に関わらず、どれも真摯な思いが感じられるものばかりです。

【おことわり】 氏名・住所等から個人が特定できないように配慮させていただきました。できる限り原文のまま転記しましたが、ご寄付、書籍購入、その他、大意に影響ないところを割愛または簡略にした部分があります。また、内容・表現が過度な場合、語彙が読み取れない場合など、整理を控えさせていただいた箇所がありますこと、ご了承願います。当会の管理上のメモは省略。 ― 石原莞爾顕彰会事務局 ―

2011年12月28日水曜日

北海道札幌市  男性

札幌から参りました。膝まで埋まるほどの雪をかき分け、ようやくたどり着きました。石原将軍は鳥海山のふもとのこのような風光明びな場所で日本を見守っておられるのですね。墓所を管理しておられる方々に感謝申し上げます。

2011年12月12日月曜日

オランダ人(アメリカ在住)  男性

石原莞爾先生のお墓参りをして感激しました。これから石原莞爾の思想を真剣に勉強させていただきたいと思います。

2011年12月10日土曜日

大阪府豊中市  ご夫婦

今年はじめての雪とか・・・日本国再生と日本民族の隆盛に資する人材育成をせねばと心がけています。旧宮家竹田様よりお話をいただき、居ても立ってもいられず参りました。  石原先生のお墓参りを目的に大阪より参りました。与えられた、神様の使命を全うし、日本の為多くの人に愛を捧げる自分となります。

2011年11月13日日曜日

地域不明  男性

石原将軍の御霊にふれることができ感激しております。

日本中東学会参会者の墓参

11月12日酒田市文化センターにて日本中東学会公開講演会「庄内からイスラームを考える」が開催されましたが、翌13日石原将軍の墓所を訪れたいと、案内役の志賀明彦氏含む有志6名が来訪されました。旧墓所、新墓所のあと吹浦の大物忌神社をご案内しました。石原将軍の三原則碑の提言に感心されていました。また大物忌神社本殿には月山神も祀られていることに、イスラムでは「太陽」は害をなすものとされ「月」が良きものとされている、等が話題となり大物忌神社はとても品格のあるお社と賞賛されていました。余談=中東では女性に対し「太陽のように・・・」は不可で、「月のように・・・」が可であると。

2011年11月7日月曜日

山形県酒田市  性別不明

家出をしてここに辿り着きました。すごく空気が澄んでいることが感じることができました。元気になる感じです。ありがとうございます。

2011年11月5日土曜日

岩手県雫石町  男性

今年も将軍の所へ来る事が出来ました。毎年進むべく道に迷った時にふとお参りに来たくなります。世界情勢は益々混沌としてきていますが、最後は人類後史時代、将軍が唱えた建設三原則に向かわなければいけなくなると思います。注:書籍購入していただきました。

2011年11月1日火曜日

山形県米沢市 男性

祖父、木村武雄が師事し、次男に石原将軍の名を授けたほど崇拝した石原先生、ようやく墓参に参ることができました。都市解体、農工一体、簡素生活の理念を引き継ぎたいと思います。

2011年10月27日木曜日

石原莞爾ドキュメンタリー 予告編

3分の予告編がプロダクションのサイトで公開されています。

東條英機との対立を経て、特に、陸軍中枢から退いて以降がどのように描かれるのか、興味津々です。確か映画は90分ものなので、おそらくインタビューも使われない部分が多々出てくるのだと思いますが、できれば、編集前の全インタビューを見てみたいものです。映像の質が高くて素晴らしいですね。

2011年10月24日月曜日

ジャーナリスト佐野眞一氏一行の取材

10月22日(土)、将軍のご本をお書きになっている鶴岡市の阿部博行氏の仲立ちで、ジャーナリストの佐野眞一氏以下、小学館週刊ポスト編集部員、フリーランス記者の以上4名が来訪。こちらは将軍にお会いしている当会の菅原会長と事務の歌川が応対した。石原将軍について佐野氏の筆により週刊ポストに掲載、以後単行本にという計画であり、現地取材を行い、関係者できれば将軍に直に会っている人の話を聞きたいということであった。西山農場母屋があった場所を確認し、旧墓所→新墓所→日輪講堂、昼食をはさんで西浜公民館にて聞きとり取材、14時には終了した。以後、鶴岡市在住の石原平和思想研究会鶴岡支部の阿部源一氏(将軍にお会いしている)に聞き取りを行い、鶴岡市郷土資料館にて将軍の資料を当たりたい予定である。佐野氏によると終戦後から西山で逝去される迄の間を中心に書きたいとのことであった。

2011年10月16日日曜日

山形県酒田市 女性

先月、旅順・大連を旅行してきました。元関東軍司令部も訪れました。その辺色々な所で旧日本軍の行動、特に〝ざんぎゃく〟の様子を取り上げ写真を掲げてあり心痛みました。石原将軍の写真も拝見しました。郷土の方なのにこの方を名前だけしか知らなかった事を恥ずかしく思いました。中国の人々はこんなに日本を憎んでいたのかと、かすかに反感さえ覚えました。日本に帰ったら石原将軍の思想、成されたお仕事を研究してみなければ・・・と思い、ここを訪れました。 
注:書籍購入していただきました。

2011年10月12日水曜日

大分県津久見市 男性

墓参に参りました。学生時代より一度は訪れたく思っていましたが、念願が叶いました。今日は庄内にて石原将軍、大川博士の足跡を辿る為に来訪いたしました。勉強して帰ります。

2011年10月11日火曜日

山形県遊佐町 女性

初めて来ました。とても近い所に住んでいますが、こういう所がある事を知りませんでした。びっくりしています。とてもきれいにしてますね。ありがとうございました。

山形県酒田市 女性

いつきてもきれいな墓地で驚いています。管理の方々お疲れ様です。これからもよろしくお願い申し上げます。私は仲條立一さんの親せきに当たります。祖母も同志の墓に入らせて頂いております。
ありがとうございます。
 注:故仲條立一様は当墓所設置に当たり尽力された同志の方々のお一人です。

2011年10月10日月曜日

東京都(酒田市出身) 男性

私も東京の大学に通う一年生です。酒田市出身ということで酒田、庄内の歴史について以前から興味があり、今回訪問させていただきました。この庄内の地には歴史的名所が多くあるのですが、残念ながら市民がそれに気付いていないこともあり、あまり注目されていません。この石原莞爾将軍の墓についても言えます。このような重要かつ後世に残していかねばならない酒田という歴史都市を将来、観光の町として復興させたいと思っています。今回はここ石原将軍の墓地に来ることができ本当に良かったです。歴史の重みを感じました。本当にありがとうございました。

2011年10月3日月曜日

『石原将軍の思い出』第2信 石巻市 眞山文子

老いぼれてしまわない内にと、思い出しながら筆を進めました。文章にしてみると簡単ですが、その時、その時にみなぎる緊張感は身体の隅々に残っております。本当に東亜聯盟運動は緊張の連続、そしてそれを経験したことの充実感は何物にも換え難いものです。そのお陰で会い見る事の出来た数々の立派な方々、そのこともまた何物にも換え難いものでした。夫々の同志の方達の想いも同じだと思っております。

昭和8年5月、国際聯盟を脱退して日本に引き揚げて来られた将軍は、間もなく8月には第四連隊長として仙台に赴任して来られました。その仙台から電車で4・50分東寄りの石巻には、当時読売新聞特派員として高木清寿氏が街の有識者達と交遊を深めておられました。その読売の新聞配達をしていた眞山(元輔-夫)は友人、知人を誘ってその高木氏から数々の教えを受けておりました。アンゴラ兎飼育の門馬氏、理髪師の亀山氏、塗師の伊藤氏、魚市場で使う竹籠製造の阿部金氏等の諸氏達。

2011年9月22日木曜日

『石原将軍の思い出』 遊佐町 歌川博男

昭和24年8月15日早朝に石原将軍はご逝去されましたが、当時5歳だった私は前夜から両親に連れられて御宅にいました。部屋いっぱいの人達の中、将軍のお顔近くでお別れをしたことをぼんやりと覚えています。これは人に聞いた話ですが、私達は将軍の家から数百m南側に住んでいましたが、ある時期、将軍にお飲みいただく山羊乳を私が一人で運んだというのです。しかし幼かった私は将軍のお姿とともにその記憶はぼんやりとしたものです。

私の生母は私が12歳の時に病で亡くなりましたが、詩や散文等を書くことが好きでした。昭22年1月(私が3歳の頃)の日記に、私に話しかける情景を「吾子」と題して散文風に綴っています。・・略・・一番好きな人は?「閣下ヨ」とはずかしそうにくびをまげる・・以下略。将軍にはなんとなく好々爺の印象を持っていましたがこれを見てうなずけます。父母はお忙しい将軍に私の命名をお願いしていました。将軍から頂いた電報に「博ハク、男ダン」とありますが、日蓮聖人ゆかりの九州博多からいただいたと聞いております。 以上

2011年9月18日日曜日

『石原将軍の思い出』 石巻市 眞山文子

私(歌川)の親せきに当たる眞山文子様(石巻市在住、93歳)から当HPブログに文章を寄せていただきました。眞山様は早くから東亜連盟運動に熱心に参加され、連盟解散後も夫と共に石巻事務所を引継ぎ活動を続けられました。実姉の故藤岡克枝様(昭56年死去)は西山に静養中の石原将軍に看護婦として、昭和21年から逝去される24年8月15日迄、付添われています。 9/16
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多分、皆様は厳しい将軍を想像なさることでしょう。人との約束、為すべき事には大変厳しい将軍ですが、芯はお心優しいお方と私はそう信じています。昭和20年頃だったでしょうか、「繆斌会談」などのご用でたびたび上京されることがあり、小泉先生や小挽町の歌川夫妻とご一緒によく上野駅までお見送りに行きました。改札口でお別れして駅構内に消える閣下のお姿は今でも瞼の底にはっきり残っています。黒いソフト(中折帽)に一寸手をかけられて、それが合図のように奥に消えてゆかれた。とてもシャルマン㊟-文末 なお方でした。

2011年9月9日金曜日

福島県 男性

私は東京の大学に通う四年の学生です。このたび卒業論文を書くうえで、石原将軍について研究させていただいています。今回はその研究のために石原将軍の故郷である山形に訪れました。その際に将軍の墓所に寄せていただきました。良い経験ができたと思います。ありがとうございました。

2011年9月2日金曜日

石原将軍を尊敬する方と歓談する

さいたま市在住の男性の方から連絡があり、今年は満州事変(9月18日)80周年に当たり、この機会に将軍墓所を守っている当顕彰会に一献差上げ、色々お話もしたいということであった。 私共としては恐縮の極みであったが、菅原会長以下3名で御好意を受けることにして吹浦の遊楽里にて氏とお会いし歓談した。氏の父は軍に関係していたが、とても石原将軍を尊敬されていてその影響で氏も将軍を尊敬するようになったのであり、遠方にかかわらず今回が3度目の墓参であった。私共は満州事変記念日のことは失念していたのであるが、氏はとても良く勉強され将軍の軍歴や満州事変の掘り下げなどを独自に成されその資料を墓前に捧げられたのである。なお氏は昭和史のほか、徳川家系図など近代日本の人脈史に相当するもの、原子力や新幹線など最先端技術に関するもの等多岐にわたる分野についてその博学ぶりを開陳され、私共はその博識に眼を開かせられることばかりで、傾聴させて頂いたのであった。

埼玉県さいたま市 男性

本年(2011年) 9月18日は満州事変80周年です。今回で石原閣下の墓参は2007年、2008年に次いで3回目でありますが、このたび顕彰会の皆様とは閣下のお引き合わせと思っております。

2011年8月26日金曜日

山形県庄内町  男性他1名

憂国の石原将軍の墓参にまいりました。今の日本は良くない方向に向いています。もういちど、意思を継いで日本国を建て直すことが出来ますよう祈念いたします。

2011年8月22日月曜日

石原莞爾ドキュメンタリー 監督について

監督のポール・ジェンキンス氏の簡単な紹介で、ドキュメンタリー専門でやっていると以前書きましたが、BBCの昔の(2004年)インタビュー記事を見つけたので、紹介します。

内容は、ロシアでのジャーナリズムの実情をレポートした彼の過去のドキュメンタリー映画の撮影関連の話(2004年当時のインタビューです)で、
  • ロシアでは犯罪組織と政治家の癒着がひどく、その闇を追求するジャーナリストは一歩間違うと簡単に殺害されてしまう、特に大物を追求すると危険、
  • 実際に彼が取材対象としていたロシアのジャーナリストが、彼の撮影プロジェクトが立ち上がった所で殺害されてしまった、
  • 撮影中は彼自身も身の危険を感じながらの厳しい撮影で、撮影に集中するのは10%で、残り90%は安全の確保のために頭を働かせていた、
  • ロシアでは報道の自由が担保されていない、
  • プーチンが人気があったのは政治家の汚職・腐敗や癒着する犯罪組織、ギャング連中を締め付けにいったからだ、
云々という話です。

石原ドキュメンタリー撮影時も、仕事に対する(ある意味)執拗な突っ込み具合だけでなく、細かい部分に対しての注意力が素晴らしく、細かい部分をきっちり把握してコントロールを利かす丁寧さに、私もお手伝いしていて、非常に敬意と好感をいだきましたが、こういうロシア取材のような厳しい環境下で仕事をずっとされてきたということで納得です。

関係ないですが、和食の『サシーミ』が大好きで、庄内ではいつも刺身定食でした(笑)。

2011年8月15日月曜日

ご命日の15日御供養

午前10時、新墓所にて石原莞爾将軍の62年忌のご供養をいたしました。

御供養の後、武田邦太郎先生を囲んで。

いつもの顔ぶれを中心に10名ほどが集まりました。ご療養中の武田邦太郎先生が98歳のお身体で車から御一緒されました。石原平和研の志賀明彦さんが忙しい中参列してくれました。ご多用の方が多く例年よりは少人数でお題目を唱えました。

山形市  男性他女性1名

またここに来ることができ、椅子に腰かけることができて改めて感謝しております。日常の中でも多くの学びがあり、その都度いたらない自分と対面しております。家族間において、仕事において、社会生活において゛大愛゛をもって人に自然に接することができるように学び実行していきます。これからも皆をお見守り下さい。ありがとうございました。

山形県酒田市  女性他2名

地元に住んでいる者です。昭和史に興味を持ち勉強中です。石原将軍がお使いになられたイスに座っている自分自身が信じられません。本当に来れて良かった。まだ高校生のため行動は限られていますが、大学では史学科に進みもっと勉強したいと思っています。本当にありがとうございました。

2011年8月13日土曜日

石原莞爾ドキュメンタリー 庄内以外での取材の様子

たまたま、ブリュノ・ビロリ氏が猪瀬直樹東京都副知事の取材をした時の様子が書かれたブログエントリを見つけました。時期的には、去年私が鶴岡郷土資料館での取材のお手伝いをする前だと思います。これまでのインタビューの数と時間は相当な量になっていると思います。いい作品になる感じがします。完成が待ち遠しいです。

2011年8月4日木曜日

石原莞爾ドキュメンタリー 撮影お手伝い 追記

今回、私が直接お手伝いしたのは
企画立案者 ブリュノ・ビロリ Bruno Birolli、
監督 ポール・ジェンキンス Paul Jenkins、
助監督兼制作補助 金子菜生 さん、
カメラマン クルノ Kruno Vrbat、
という方々で、制作会社は Subreal Productions + Arturo Mio という組み合わせ。

私が聞いている理解では、この制作会社のスポンサーとなって、完成後番組を放映するのが、Arte アルテという放送局となります。ちなみに、アルテ社のウェブページによると、アルテは
  • フランスとドイツ資本による合弁の公共文化教養専門放送局で、
  • フランスのストラスブール市に本社を置き、フランスのパリ市およびドイツのバーデンバーデン市に編集拠点を持ち、
  • 放送はドイツとフランス国内向け、言語は仏独二言語、
  • 放送に占める、ドキュメンタリーの割合は41%、
という放送局。

2011年7月30日土曜日

東京都あきる野市  男性

去年に続き、今年もまた来れてよかったです。また来年も来ようと思っています。雨を心配しましたが晴れてくれたので助かりました。

2011年7月26日火曜日

石原莞爾ドキュメンタリー 撮影お手伝い 第3日目 午後 光丘文庫編

三日目午後は、酒田に移動前に、鶴岡市立図書館のすぐ側の桂やで昼食。麦切りが好評。食事の後は、前田さんのご好意で山形経由福島に帰る佐藤先生を高速バス乗り場まで送ってもらい、私は残る撮影隊を乗せて、酒田の光丘文庫へ。

途中でブリュノからコンビニローソンがあったら止まってとのリクエスト。なんでも、ローソンでないと、好きなコーヒーのブランドを置いていないとのこと(笑)。

光丘文庫では、伊藤先生と待ち合わせ。伊藤先生は、大阪府立大学名誉教授、専門はドイツ文学で、石原莞爾がドイツに駐在していた時の手紙を研究(『石原莞爾のヨーロッパ体験』)。

石原莞爾ドイツ駐在時代の私信を読む伊藤先生の撮影。

石原莞爾ドキュメンタリー 撮影お手伝い 第3日目 午前 鶴岡郷土資料館編

三日目午前中は、郷土資料館で佐藤先生の追加インタビュー、その後、資料撮影。

石原莞爾インタビュー動画をコンピュータで再生し、それを
見ている佐藤先生を撮影するためにセッティング中。

2011年7月25日月曜日

石原莞爾ドキュメンタリー 撮影お手伝い 第2日目

二日目は、朝ホテルで撮影隊をピックアップの後、湯野浜へ向かい、福島からいらっしゃった佐藤先生をお迎え。佐藤先生は、石原莞爾平和思想研究会の副会長、ご家族の方と前泊して湯野浜温泉を楽しまれたとのこと。旅館は亀や。受付の亀や社長の奥様にご挨拶。

佐藤先生をピックアップ後、遊佐の道の駅鳥海ふらっとへ。菜生さんから博男さんに到着前に電話をいれてもらい、ふらっとの駐車場で待ち合わせ。

旧墓所に向かう前に撮影。向かって左から、佐藤先生、
ブリュノ、ポール、クルノ、私(ちょっと眩し)。


2011年7月24日日曜日

石原莞爾ドキュメンタリー 撮影お手伝い 第1日目

撮影隊は昨日庄内入り。私は本日から、通訳兼ガイド兼ドライバー兼撮影助手として参加。

午前中ホテルで打ち合わせの後、私は監督のポールとカメラマンのクルノを乗せて由良海岸に移動し、海岸の撮影。ブリュノと菜生さんは海岸に向かう途中、致道博物館で降ろして午前中は別行動。

撮影中に現れた鳶がいい絵になりそうということで狙っ
ています。監督のポール(左)とカメラマンのクルノ(右)

2011年7月16日土曜日

雀 8日目

突然ですが、雀は亡くなってしまいました。昨日の夕方までは、ビデオにあるように飛び跳ね、病気の兆候すら感じさせなかったので、なんというかとてもショックです。昨晩は静かだなと思ってはいましたが、昼間飛び跳ね過ぎで疲れたのだろうと思っていました。今朝、さて外に出す訓練を再開と思って、鳥かごを見たら隅ですでに冷たくなっていました。

死因の見当がつきません。7日目に変えたことは、鳥かごに入れて、外に出したことくらいです。糞を調べてみると、黒い糞が混じっていたので、おそらく家の近くの興味を示していた雀の群れの世話好きが虫の餌を与えてくれたのだと思います(いままではすり餌だけなので、緑の糞です)。その中のどれかがあたったのか?ただそれにしても、異常な便は観察されませんでした。暑い日だったので、低体温等は考えにくいし。あるいは、逆に熱射病か。


2011年7月15日金曜日

雀 7日目

羽根が広がってきたので、羽根の撮映。


当初は引きずっていた足もかなり動くようになってきた模様で、今日はなんと、朝からジャンプです。今日から鳥かごに入れて、ビデオのように、網戸を隙間空けて、雀の群れとのコミュニケーションを図っています。

2011年7月14日木曜日

雀 6日目

羽管が割れて羽根が出てきました。


雀といえども野鳥なので、本日は、庄内支庁の環境課に保護野鳥に関して、どのようにしたらよいのか問い合わせ。基本は、野鳥の落巣ひなを見つけた場合でも、何もせずに立ち去って欲しいと。理由は、親鳥が側にいた場合に人間が側にいると近寄れないため。親鳥が近くにおらない場合に何もせず立ち去った場合、落巣ひなが結果的に弱って死んでしまう、または、他の生物の餌になってしまうことになるが、それはそれでやむ無しという見解。理由は、それが、自然の生態系であるから。後者は、残酷ではあるが、言われてみれば、その通り。保護してしまった場合は、親鳥がいるにせよ、いないにせよ、早く自然に返してあげて欲しいとのこと。雀に関しては、特に保護する上での申請は不要とのこと。

2011年7月13日水曜日

雀 5日目

突然元気になりました。食欲も旺盛で、餌やり器をなかなか放してくれません。


2011年7月11日月曜日

雀 3日目

入れ物の掃除をしてあげました。まだ、ヨロヨロしていますが、健康なようです。


2011年7月10日日曜日

2011年7月9日土曜日

日輪講堂 清掃 第2回目

本日は清掃作業第2回目、拭き掃除編。平成の始めの頃以来の本格的掃除とあって、拭き掃除は1回モップをゆすぐだけで、水が真っ黒になるくらいの汚れでした。作業は1時間ちょっとで終わりました。バケツの水は何度変えたかわからないくらい変えました。

本日快晴夏日で、気温は34℃くらいでしたので、まさに雫のようにしたたる汗でした。

清掃後 2階


2011年7月3日日曜日

日輪講堂 清掃 第1回目

今月の石原莞爾ドキュメンタリー撮映で墓所を撮映する際に、日輪講堂も撮映で使うかもしれないという事情もあって、本日は博男さんのお手伝いで日輪講堂の清掃作業をいたしました。大量の蜂の死骸やら、ねずみの糞やら、何年分かわかりませんが、なかなか凄い状態。ゴザが劣化して、触ると粉になるような状態でした。怪しげな粉塵の舞う中、軍手をして、帽子をかぶって、マスクをして、フル装備での作業でしたが、今日はそこまで蒸し暑くはなかったのが幸いでした。本日は片付けと掃き掃除作業だけで時間かかなりかかってしまったので、拭き掃除は次回の予定。掃除の後の冷たいコーヒーが美味しかったです。

実は私、日輪講堂の中を拝見するのは、今回が始めてでした。以下は、本日撮映した内部の写真。

入り口から見た1階広間。正面はトイレ、右手がキッチン。

秋田県鹿角市  男性

先般、東日本大震災で多くの方々が亡くなられました。東京でもパニックとなり、首都の機能がマヒしたと聞いています。都市解体といわれているように、東京一極集中はすでに限界にきており、石原将軍の考えたように日本は地方に産業工業都市20~30万程のものを創り、農工一体の簡素生活をすべきとおっしゃっています。震災を機に今後の日本のあり方を見直すべきだと思います。

2011年6月14日火曜日

墓所三原則碑の拓本をとる

6月14日朝、酒田市在住の阿部順吉氏ほか拓本同好の志5名が墓所を訪れ阿部氏が主に行う石原将軍の三原則文言の拓本作業を見守りました。阿部氏は鶴岡・酒田両市から両市内にある碑の拓本制作許可を得ている方です。拓本制作過程は集中力を要求される繊細な技術でした。当日朝は今にも降り出しそうな空でしたが、無風で湿度があり制作には良い条件ということでした。拓本にされることで将軍の言葉がより多くの人に実感を持って見ていただくことができるのはうれしい限りです。今後は三原則碑の裏面にある将軍実弟の六郎氏の言葉と三原則碑概説を制作したいということです。今日制作の作品は酒田市中町の街なかキャンパスで7月14日から展示公開される予定です。余談ですが阿部氏は15歳だった昭和20年9月、石原将軍新庄講演を聴きに行ったということです。

2011年6月6日月曜日

山形県鶴岡市  男性

父と来所、父が約60年ほど前に酒田市新堀地区の公民館で石原先生の講演を伺ったと聞いておりました。念願かない石原先生の墓所でその姿を焼きつけてみたいと感じております。父の話では公民館にふらっと入ってきて、民衆に向かって話されていたとのことですが、父もその方が日本の歴史に名を残した方とは知らずにいたようで、後に偉人であったと話しておりました。私は当然生れておりませんでしたが、石原先生の所有されていた椅子に腰をかけてこの一文を記しているうちに、石原先生の強い声が響いてくるように感じております。先生、安らかに

2011年5月25日水曜日

福島県郡山市からのグループをご案内しました。

5月25日、福島県郡山市のNHK文化センター、歴史を学ぶ皆さん22名が、星亮一先生を講師に来訪され、墓所をご案内させていただきました。さわやかな晴天で鳥海山が良く見える良い日でした。星先生は、今日の日本の状況を見ると将軍の主張には先見の明があったと言われました。

2011年5月21日土曜日

宮城県仙台市  男性

仙台から参りました。三陸沿岸は津波により大変な被害にあいました。1000年に一度の天災と思います。石原将軍の戦後復興の教えを勉強しにまいりました。

2011年5月14日土曜日

石原莞爾ドキュメンタリー お手伝い

震災で延期されていた石原莞爾ドキュメンタリーが再始動となり、お手伝いで東京に10-11日と一泊二日で行ってきました。今回は訪問先が新宿のすぐ近くだったので、新宿で宿泊しました。東京は、ひとつめの大学就学中と貿易商社で働いていた期間、合計で10年ちょっと暮らしていましたが、新宿には、特に働き始めてからはほとんど行ったことがなかったので、新鮮でした。いまさらながらですが、高層ビルがたくさんありますね。センチュリーホテル・サザンタワーというところに泊まったのですが、新宿御苑が綺麗に見えました。

2011年5月8日日曜日

墓参状況を更新しました。

今回より個別のものは割愛させていただきました。都道府県別で全体の状況をご確認願います。今、墓所は山桜が満開で春の装いです。

2011年5月5日木曜日

東京都  男性

GW最終日に立ち寄りました。自分にとっての石原莞爾将軍のイメージは満州事変の陰の首謀者であるというものだったし、世間一般もその傾向が強いと思います。意外でした。いつの世でも自分の強い意志をもって公のために行動した人たちが後世からも尊敬され、慕われるのだと思いました。

2011年5月4日水曜日

埼玉県上尾市  男性

石原莞爾中将が戦時中、陸軍中央に留まっていたとしたら、東条英機をはるかにしのぐ天賦の才を持っていたといわれる氏が中央に居たとしたら、日本は先の戦争に関してどうなっていたでしょうか。?でも昭和20年には敗戦にならずとも、結局は米国と戦わざるを得ない結果だったとも思えますが・・・歴史に「たら」「れば」はありませんね。

2011年5月3日火曜日

広島県呉市  男性

石原莞爾将軍の話は何度も読んでいます。霊峰鳥海山の見えるこの丘を墓所としたのは、やはり地元ならではの気持なのでしょう。また何時か参ります。

2011年5月1日日曜日

埼玉県川口市 女性

昭和が好きで日本史を勉強させていただいているものです。私が昭和という時代に興味を持ったのも、石原莞爾将軍がいてこそであって、人生や思想などにとても興味を持っています。念願の墓所にお参りができて、ますますその思いを強くしています。こうしてきれいにお墓を整えて下さったり貴重な資料を置いて下さっていることに本当に感謝いたします。とてもすてきな所だと思います。ありがとうございました。

東京都 女性

東京から参りました大学生です。石原将軍のことを勉強してきて、本を読むだけでなくようやくここに来て参拝することができました。ただただ感動です。暖かい気持ちでいっぱいになりました。また機会がある時に参りたいと思います。本当に素敵な場所だと感じました。ありがとうございました。

2011年4月1日金曜日

石原莞爾ドキュメンタリー 撮影延期

長い半月でした。こちらでは直接的被害が無かったため、一見何も無かったかのように、元の生活に戻りつつありますが、地震前と後では、目に見えない部分でいろいろなことが変わってしまったような気がします。

題記の石原莞爾ドキュメンタリーは、昨年フランスのテレビ制作会社Subreal Productionsが主体としてフランスおよびドイツ向けに制作することが決定し、昨年11月には調査取材を終え(私は鶴岡で通訳としてお手伝いしました)、震災直前の3月9-10日の段階では4月に本番撮影で来るという話で事前準備の段取り等の最終調整の話を詰めていたところでした。当然、当面延期です。

被災地でも安全で安心できる環境と社会をできるだけ早く取り戻すことができるように祈念します。

2011年3月22日火曜日

墓所取り付け道が通行できます。

お彼岸の頃になってやっと取り付け道の雪が消えて通行できるようになりました。ただし、7号線は車の走行が激しいので入口の出入りには十分ご注意願います。秋田方面からの進入は危険ですので、酒田方面から入るようにお願いします。

2011年3月13日日曜日

東日本大震災 Earthquake in Tohoku

東北太平洋側の被害には言葉を失います。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。被災地の方々の安全をお祈りします。山形県酒田市周辺は昨日午後から順次電気が復旧し、店舗も営業を始めました。家の周辺地域での家屋等の損壊もありません。

I was deeply saddened to learn of the tragic loss of life and terrible damage caused by the earthquake in the Pacific coast of Tohoku. May God bless them. Sakata area is OK. We got power back yesterday afternoon. Most of stores are open now. Things are getting back to normal here.

大震災お見舞い申し上げます。

11日の巨大地震発生では当地もかなりの揺れを感じその後停電が一昼夜続きました。しかし新旧お墓の墓柱など全く異常ありません。一方刻々と明らかになる太平洋側を中心とする甚大な被害には言葉もありません。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地の方々に一刻も早く安心安全がもたらされますように願っております。

2011年3月7日月曜日

写真館 追加改修

石原莞爾将軍墓所ウェブサイト、写真館のページに、石原莞爾氏以外で西山に関わりのあった方を集めたアルバムを追加したのでお知らせです。大部分は西山に直接関わった方でないとわからない写真ですが、生誕百年祭では元韓国居留民団の会長を務めた曽寧柱氏、衆議院議員加藤紘一氏、没後60年墓前祭では漫画家の江川達也氏の顔も見えます。

2011年3月2日水曜日

1月・2月の墓所ノート及び芳名簿を整理する

1月・2月の墓所ノート及び芳名簿を整理いたしました。今年は大雪でしたが深雪の中、歩いて来られた方がいて感動しました。すでにお知らせしていますが、取り付け道の雪はまだ消えておらず、入り口での方向転換も難しいので、お車での墓参は今少しお待ちいただきたいと思います。今月の中下旬には道路上の雪もなくなると思われます。

2011年2月20日日曜日

山形市 男性

 石原将軍がお使いになって居られた椅子に腰かけ雪白の世界で静かに息をする。皆様のやさしくあたたかく、そして強い思いにふれる事が出来て感激しております。日本人として我々に出来る事は何か。石原莞爾将軍に学びます。一度、お会いしてみたかった。ありがとうございます。

2011年2月14日月曜日

新コンテンツ『人間 石原莞爾(仮)』追加

新しいコンテンツとして、石原莞爾将軍の人間性に関する証言を集めたページ『人間 石原莞爾(仮題)』を作りました。石原莞爾の魅力として、その先見性に満ちた預言者・軍事的天才としてのカリスマ性を説明するサイトはネット上にもたくさんありますが、それだけではないということを紹介する一助になればと思っています。それと、戦後遊佐町西山に石原莞爾将軍を慕って全国各地から多くの人が集まった時期があったということも、忘れ去られてはいけない史実として、特に地元の若い人たちには知っておいて欲しいと思います。この辺の経緯は歌川博男さんの力作西山の歴史に詳しいです。『人間 石原莞爾(仮題)』の内容は順次追加・更新予定。

あとは、年間予定に季節ごと鳥海山の写真を載せる予定。現在は、夏と秋分を載せています。

2011年1月4日火曜日

茨城県 男性

 HPの開設おめでとうございます。普段お墓の管理、手入れに加えてHPを作成されたこと頭が下がります。石原先生がもっと多くの人から好意的に認められるよう努力されている皆様に感謝します。HP拝見しましたが、バランスのとれた過激ではない姿勢に共感しました。石原先生のお弟子さんとも言える方々は、いつもあたたかい心を持った方ばかりで感謝しております。墓守をされていた鈴木和子さんご存命のときは、本当によく私のことを迎えてくださいました。今日は歌川様に突然だったのですがあたたかくおもてなしをしていただきました。本当にありがとうございました。石原先生の生き方を初め、現在石原先生を支えている周りの方々の努力が多くの方に理解されることを心から願っております。

2011年1月3日月曜日

11月12月分の墓所ノート及び芳名簿を整理する

11月12月分の墓所ノート及び芳名簿を整理いたしました。名簿の方は15名の記入があり、HP上で更新いたします。感想ノートは5名の方に記していただき、こちらはブログに掲載いたしました。

2011年1月1日土曜日

元旦墓参

午前10時、武田邦太郎先生はじめ地元有志8名がそろって墓前で参拝いたしました。例年では積雪で国道の取付け道入口がふさがれてしまうのですが、今年はめずらしい好天に恵まれ、白銀の鳥海山を眼前に仰ぐ気持よい墓参ができました。